仁和寺からのお知らせ
今月の法話
19/11/18

共に生きる

 お大師様の「秘蔵宝輪」の中のお言葉に、「生まれ生まれ、生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死んで、死のおわりに冥し」とあります。いくら生まれ変わっても、その前を知らないように死を繰り返しつつ、そのあとも知らないのが私達のようです。それどころか今生かされているこの世のことも、自分の事は自分が一番よく知っていると思い込んでいるようですが、それさえも危なっかしい錯覚のようです。
 
 人間の身体に例えてみても自分の身体と自負しているようでありますが、前面はある程度見る事は出来ても中は見ることは出来ません。背面に至っては、自分の身体といっても殆ど見ることはできません。自分の身体一つとってみても何と知らないことの多いことか。ましてや自分の心ではあっても、本当の自分の心を知らないのが私達ではないでしょうか。
 
 数年前、山口県のお寺を訪れる機会があったので、かねてより一度行ってみたいと思っていた長門市へ足を延ばしました。そこは金子みすゞの生誕の地ですが氏の数ある詩の中でも代表的な”大漁”が私にとって心に残るものであります。
 
 朝焼小焼だ大漁だ 大羽鰮の大漁だ 浜は祭りのようだけど 海のなかでは何万の 鰮のとむらい するだろう

 私達は目に見える事に一喜一憂し、喜び、悲しみ、腹を立て、争い、あやまちを犯しています。その奥にある相手の心や思いには気付こうとせず、自分の尺度でのみ相手を見つめていないでしょうか。見えない所に目を向け、心を向けなければなりません。目に見えることは1%、見えない所は99%といいますが、見えない所、つい見過ごしている所、気付こうとさえしていない99%に目を向ける努力が必要です。
 
 同じように身近な社会の中でも、家庭にあっても、親と子、老人と若者、そして夫婦にあっても、互いに支え合い、生かされている事を知らねばなりません。年寄りなら、若者なら、夫なら、妻ならと相手に求めるばかりではなく、思ってくれる有難さ、つくしてくれる有難さ、居てくれる有難さに気付かねばなりません。そして喜びを感じ、感謝する心を起こさせていただけたことに幸せを感じ、周りの人達によって生かされ、共に生きていることを感じたいものです。
 
 ありがとう、すみませんでした、申し訳ありません、嬉しかった、この私達の周りにあるほのぼのとした言葉、その言葉によって救われ、なぐさめられた事を思い起こして見ませんか。すべて自分が考えた言葉ではありません。いただいた言葉なのです。それならば、今度は私達が相手にお返しするのです。その事によって人々は救われ喜びを共有するのです。共に生き、生かされていることに感謝したい。
 
 みんなみんなありがとう。有ることの難しい中でいて下さってありがとう、心を寄せて下さってありがとう、そんな人達と共に生かされている今の自分にありがとう、生かさせていただいている今ににありがとう。
 「生まれ生まれ 生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死んで、死のおわりに冥し」