仁和寺からのお知らせ
今月の法話
19/10/15

いのちと感謝のこころ

 人は何も持たずに生まれてくる。勿論両方の手にも、知識にしても。しかし本当に何も持っていないのだろうか、じっくりと考えてみたい。まちがいなく言えることは、生命と心はもって生まれてくる。まずその事をじっくりと反芻してみたい。
 人生の中で物事に悩んだり苦しみに遭遇したり、悲しみに落ち込んだり、もがいてみたり、人生には喜怒哀楽は繰り返し訪れる。そんな中で喜びや楽しい事柄は一瞬に通り過ぎてゆくもののようだが、苦しい事、悲しい事は仲々一朝一夕という訳にはいかないようである。そんな時いつまでも心を閉じるのではなく、自分の心の眼を明るい方向へ向けたいものである。孤独になる心から脱して下さい。心を閉じていると人は生きている事が寂しくなってしまいます。自分一人ではない事を知っていただきたい。
 近頃、檀家の法事や葬儀の折に耳にした気になる言葉がある。家族のみで葬儀を行いたい。少し範囲を拡げても身近な親、子、孫達で行いたいというのである。近隣、知人、会社関係の人々に来てもらっても後々の交際、つき合いが出来ないというのである。僧籍に身を置く私たちは、そんな言葉や会話を或いは相談を受けた時、どんな関わりをもち、言葉を発しているのであろうか。関わりを持つ事をためらったり、その場限りの無難な返事でお茶を濁してはいないだろうか。
 近年時代の移り変わりとの安易な言葉で家族葬、散骨、樹木葬とか勿もらしい言葉にまやかされてはいないだろうか。長所はそれとして認めつつも本来どうあるべきか、命とは生命とはを真剣に考える場として交わっていきたい。育ててもらった私達の在り方、愛情を注いでもらった人達に対し今生との別れ、偲ぶ機会を考えたい。

 ある時、原作者不詳ではあるが補足詞、作曲をされた樋口了一氏の「親愛なる子供達へ」と題した『手紙』に接した。ここで紹介してみたい。

 年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても どうかそのままの私のことを理解して欲しい 私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい 
 あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は いつも同じでも私の心を平和にしてくれた 悲しいことではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと励ましのまなざしを向けて欲しい 
 楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを 悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい
 いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ出来なくなるかも知れない 足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったら あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい 
 私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど 私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しい きっとそれだけでそれだけで 私には勇気が湧いてくるのです あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように 私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

 私の子供達へ 愛する子供達へ

 私たちは同行二人という言葉を教えられた。どんな時もお大師様とご一緒なのだということを修行中のお遍路さんもお大師様に支えられ見守られていることを。それはひいては父であり母であり友であり周りの愛してくださる人々である事を。そのことを意識し心に強く思い起こせば感謝の心が湧いてくるのです。心から有り難いと思うのです。